赤坂小町時代


赤坂小町は1983年2月に行われたTDKレコード(現クリエイティヴコア)主催のオーディションでメンバーが選ばれ結成された。 渡辺(あっこちゃん)、中山(加奈ちゃん)、今野(登茂ちゃん)、奥居(香ちゃん)の4人は優勝者で、富田(きょんちゃん)は2位で優勝者が辞退したためメンバー入りした(ドラムの優勝者は鈴木祥子だったらしいということを小耳に挟んだことがあるんだけど… これって本当?)。
「赤坂小町」という名前は、当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』を使って『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた、雑誌上での公募で付けられた、などの説がある。 香ちゃんはTBSそばの信号の「赤坂小前」の表示を見ると赤坂小町を思い出してしょうがない、と言っていたっけ。
初期の赤坂小町の構成
渡辺敦子:ギター、中山加奈子:ギター、富田京子:ドラム、今野登茂子:キーボード、奥居香:ベース。メインボーカルはまだ決まっていなかった。
合宿生活開始。 期間は1983年4月10日〜1984年7月29日まで。香ちゃんは1ヶ月遅れで参加。 メンバー5人のほかに、当時女優の卵で同じ事務所に所属していた木之内美穂(現在は生島企画室所属のタレント、メンバーは本名から「あきちゃん」と呼んでいた)と6人で生活していた。 1993年4月3日にNHK総合でプリプリの特番が放送された。 タイトルは「ヒーロー列伝 とっておきナイト プリンセス・プリンセス いつまでもグローイングアップ」。 ラスト近くにプリプリのメンバーが西日暮里の合宿所を訪ねるシーンがあって、木之内がメンバーに内緒で先周りで待ち伏せしていて10年ぶりの再開を果たす。 (NHKアーカイブス保存番組詳細→ http://archives.nhk.or.jp/chronicle/B10001200999304030130082/  ここに該当データがないっていうことは、保存されてないの!?)YouTubeにアップされてた時期があったね。
メンバーが合宿していた西日暮里探訪についてはこちら→  メンバーが合宿した地、西日暮里
5月29日、銀座の山野ホールで初ライブ。事務所が「1ヶ月で20曲弾けるようにさせます」と無茶な約束をした。
1984年3月、TDKレコードよりシングル「放課後授業」でデビューする。
この前後の頃に当時ベースだった香ちゃんと、ギターだったあっこちゃんがパートチェンジした。 あっこちゃんはこのままギターを続けることに自信がなくなっていたようだ。 「私にベースをやらせてほしい」と香ちゃんに言い、話し合いの末パートチェンジが決まった。 香ちゃんはこれまで触ったことのないギターにチャレンジすることになった。
この時点での赤坂小町の構成
渡辺敦子:ベース、中山加奈子:ギター、富田京子:ドラム、今野登茂子:キーボード、奥居香:ヴォーカル・ギター。これでほぼプリプリに近い形になる。
3月20日、デビューコンサート。 よみうりランド内のスケート場でやる予定にしていたが、大雪のため中止に。 スタッフは雨天中止をメンバーに伝えていなかったようで、メンバーは泣いてやりたいと訴え、ボーリング場でデビューコンサートをやった。 後に香ちゃんは「こっちも超アマチュア、スタッフサイトもすごいアマチュアで、サークル活動とクラブ活動が一緒になってプロの真似事をしようとして大失敗したという感じ、」と回想している。
2ndシングル「ひと夏のスキャンダル」(B面は「合宿しない?」歌、加奈ちゃん)、3rdシングル「コアラボーイ コッキィ」(B面は「地図にない道」歌、登茂ちゃん)、ミニアルバム「コアラボーイ コッキィ」をリリース。
赤坂小町時代のライブは所属事務所の親会社TDKの工場回りと、レコード販促のためのスーパー等の商業施設でのミニコンサートがほとんどだった。 デパートなどの近所から「うるさい」と苦情が来てやめさせられることもあったという。

デビューシングル「放課後授業」のジャケット

放課後授業

ジャケットからわかるようにこの当初は香ちゃんがベースだった。 この後あっこちゃんと香ちゃんがパートチェンジをする。

2ndシングル「ひと夏のスキャンダル」のジャケット

ひと夏のスキャンダル

3rdシングル「コアラボーイ コッキィ」のジャケット

コアラボーイ コッキィ

TV東京系で放映されたアニメ「コアラボーイ コッキィ」の主題歌だった。 B面の「地図にない道」はアニメのエンディング。

写真2点「いつも心にダイアモンド」口絵より 1983年

赤坂小町時代

左より 奥居、渡辺、中山、今野、富田
1983年8月、山野楽器のイベントに参加した時。
アイドルバンドとしてデビューして、初々しくてかわいらしい感じ。
赤坂小町時代

後列左より 今野、中山、渡辺
前列左より 富田、奥居


これらの写真を見てわかるようにオーディションでのメンバーの選出はアイドルっぽい容姿が重視された。 特に香ちゃん・登茂ちゃん・きょんちゃんの3人を見ているとアイドル風のルックス重視で選んだなという感じがする。
このオーディションを企画したのは内田勝啓という人物だった。TDKレコードで「赤坂小町」のプロジェクトの責任者であった。 TDKレコードの前にいた会社で「横浜銀蝿」を手掛けたことがあるそうだ。
当時TDKレコードの社内では「アイドルグループじゃないんだから、オーディションで集めたメンバーでバンドなんか作れるはずがない」とオーディション実施に反対の声が多かったようだ。 事実、もめてオーディションのプロジェクトリーダーの内田氏は赤坂小町結成後まもなく、TDKグループ内別会社へ移動させられる。 社内は反対派が多いためもあってかマネジメント面も充分ではなく、これで赤坂小町は宙ぶらりんの状態になった。
宙ぶらりんになったメンバーを救ってくれる人が現れた。プロデューサーの鷲田一博氏である。 鷲田氏のおかげでデビューにまでこぎつけた。彼がいなかったらこの先はなかったと言ってよい。 が、事務所のバックアップはあまりなかったようだ。(はっきり言ってお荷物扱い?) ライブをやる場所も親会社のテープ工場やスーパーの屋上だったりした。 このままじゃはこの先は明るくないと移籍を考えることになる。 84年の11月頃、外部からマネージャーが来た。 移籍したほうが良いと説得される。
メンバーは昼間の練習とは別に夜間に別スタジオで自主練習をしていた。 昼間の練習は事務所の人がいてあれこれ言われるので、自分たちのやりたいことができなかったそうだ。 自分たちでスタジオをを借りるために名乗った別名が「ピアス」である。 5人でがんばろうと誓いのピアスを開けたというエピソードがある。 これでさらに結束を固めたんだね。 この自主練習での曲作りのテーマは「納豆ゼリー」。 納豆とゼリーは普通は別々に食べるけど、ひょっとしたら一緒に食べても美味しいんじゃないか、何事も先入観を捨ててやってみようということだった。 プリプリになってから発表された曲のいくつかの原型がこの頃に作られた。

96年に出た赤坂小町のCD 「赤坂小町」
1996年3月25日リリース。

1.ようこそコアラちゃん
2.コアラボーイコッキィ
3.可愛いラーラ
4.Sweet Paradise
5.ワルサをしなけりゃはじまらない
6.地図にない道 歌:今野登茂子
7.パパとママのタンゴ
8.おやすみコッキィ
9.放課後授業
10.準備はOK!
11.ひと夏のスキャンダル
12.合宿しない? 歌:中山加奈子

1〜8曲目までがミニアルバムコアラボーイコッキィから。9〜10曲目は1stシングル、11〜12曲目は2ndシングルから。
このCDってプリプリの人気に便乗しての発売だったらしい。 この時期に発売すれば確実に売れる、解散するんだからもういいだろうとか、なんかそんな感じが見え隠れする。 だけどすぐに回収されてしまった。 回収された理由は、メンバーや事務所から了承を取ってなくてクレームが付いたためだといわれている。 やっぱりそうなんだね。 当時、このCDが店頭に並んでるのを見て、え、これまで出しちゃっていいのって思った。 買っちゃったけど…
香ちゃんのほかに歌ってる加奈ちゃんと登茂ちゃんが後にソロでCD出してるんだよね。

私見「TDKレディースバンド募集 −新ビートルズ神話誕生−」  あくまでも私個人の見方です。
1983年2月20日、日本テレビのスタジオで女性バンドを結成するためパートごとのオーディションが行われた。 キャッチコピーは「1983年、新ビートルズ神話誕生!」。 当時、このオーディションのポスターやチラシ等のキャッチコピーを見てこのオーディションに応募してきた子は、「ビートルズのようなメジャーな女性ロックバンドを作るためのオーディションをやるんだ」と思ったことは想像に難くない。 ところがオーディションを主催したTDKレコード側は、内田氏の言葉を借りて言うなら「ロック志向の強い子は避けて素人っぽい子を選んで完全にアイドルグループとしてのバンドを作ろうとしていた」のであった。 リーダーの渡辺さんも著書「いつも心にダイアモンド」で、主催者側は「楽器をもったキャンディーズ」をイメージしていたと回顧している。
メンバーがこのオーディションに応募した理由は「ギターで飯を食っていこうと考えていた」(中山)、 「自分が客観的に見てどれだけの実力があるのか知りたかった。このオーディションのバンドが売れれば話のタネにもなる。」(富田)、 「一流の先生についてキーボードが学べる」(今野)、「メジャーへのチャンスはそうなかなかあるもんじゃない、このチャンスしかない」(渡辺)、 「このオーディションを受けれなかったことで後悔したくはない」(奥居)。 ほかの応募者も「メジャーへのチャンス」「自身の客観的な実力レベルが知りたい」などいろいろあったと思うけれど、募集する側と応募した側との意識のズレ、考え方のズレは最初からあった事は否めない。 赤坂小町がうまくいかなかったのは、募集する側のコンセプト、レコード会社所属のアーティスト・公募で集めたメンバーをアイドルバンド的に育てる等が時代遅れであったことの他に、キャッチコピー「新ビートルズ神話誕生」にもあったと私は思っている。 さて、あなたは「新ビートルズ神話」と聞いて何をイメージする?  それはメジャーなロックバンドを作ることであって、かわいい・ルックスだけが取り柄のアイドルバンド作ることじゃないはず。
内田氏を初めオーディションの主催者側は売り込みは会社の力で何とかなると思っていたんだろうか。 仮に内田氏が移動にならず内田氏の力で売り込んだ所で赤坂小町は売れたのだろうか? 私は売れなかったと思う。 メンバーの著書でも書かれているように、メンバーの音楽の志向もばらばらで同じ目標を持ててない、それとどういう音楽性でいくのかというコンセプトがしっかり固まっていなかったのというのが大きな理由だろう。 そして一番最大の誤算はバンドは成長するのに時間がかかるというのを考えていなかったか、それは二の次と考えたか、そこにあったと思う。 考え方も音楽の志向もばらばらのメンバーがまとまり結束を固めていくにはそれなりの時間がかかる。 現実に赤坂小町がPRINCESS PRINCESSになりチャンスを掴み駆け上がっていく手応えを実感するまで、幾多の紆余曲折と約4年の年月がかかった。

追記:
http://okwave.jp/qa/q5648807.html という質問サイトでうちのサイトが参考サイトとして紹介されていてびっくり!!  この質問者の方は赤坂小町について、「当時はまだロックバンドをやること自体が「ツッパリ」と見られがちで、そういう風に見られないようにするためアイドル路線で売るしかなかったのでは」と見ている。 この時代はロックバントをやる=不良・ツッパリだという見方がまだまだ根強かった。 確かに、この当時は80年デビューの聖子ちゃんやキョンキョン(小泉今日子)などの82年組が華々しく活躍しているアイドル時代全盛期だったから、売る方は「楽器が弾けるアイドルグループ」が一番良いと判断したんだろう。 だけどオーディションに応募した側は、ロックバントをやる=不良・ツッパリと見られるかもしれないけれど、それは音楽をやるのとは別の偏見であって、そんなことよりもあっこちゃんのように「数少ないメジャーへのチャンス」として応募した人もかなりいただろうと思う。
自分がプリプリを聴き出した頃、うちの親が「普通の女の子がロックバンドをやる時代になったんだねぇ」と言っていたことを思い出す。 自分の親は自分が若い頃はロックバントをやるのはおろかロックを聴くのも不良だと学校に言われてたからねと言ってた。


おまけ、赤坂小町時代とプリプリ時代で同じ並びの写真があったので載せてみた。
顔立ちに面影があったりするが、がらりと雰囲気は変わる。そりゃそうだ、アイドルとして売り出していた頃とロックバンドじゃ。

その1  1996年に発売されすぐに回収となった赤坂小町の
CDジャケット内側より。

赤坂小町のCDジャケット内側

当時のビデオの映像(ひと夏のスキャンダルのプロモーションビデオ)からか画像はあまり良くない。
いずれも左より、奥居、中山、今野、富田、渡辺
1996年5月31日の日本武道館ラストライブを収録したビデオのジャケット。

531武道館ラストライブビデオのジャケット


その2  こっちのほうが比較しやすいかも。

赤坂小町時代

赤坂小町時代。
いずれも左より、後列左より 今野、中山、渡辺
前列左より 富田、奥居
1995年の正月武道館ライブ「謹賀新年95 PRESENTS」のテレカ。

謹賀新年95のテレカ