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はじめに
プリプリのメンバーにとって赤坂小町時代は黒歴史なんかじゃありません。
特にきょんちぁんのラジオ(湘南ビートランド)でのしゃべりやブログの内容を見るとそれがよくわかります。
赤坂小町・ジュリアンママがあってのプリプリなんだよね。 ♪赤坂小町もジュリアンママも全部プリプリを組み立てた部品だ〜♪ ってことで。
きょんちぁんのブログ 富田京子ブログ_2016-03-21 Dear赤坂小町
豊洲PITのライブのMCでも赤坂小町時代のことが話題になったし。
赤坂小町結成
赤坂小町は1983年2月20日に行われたTDKレコード(現クリエイティヴコア)主催 / 集英社ヤングセンス後援のオーディションでメンバーが選ばれ結成された。
渡辺(あっこちゃん)、中山(加奈ちゃん)、今野(登茂ちゃん)、奥居(香ちゃん)の4人は優勝者で、富田(きょんちぁん)は2位で優勝者が辞退したためメンバー入りした(ドラムの優勝者は鈴木祥子さんだったらしいということを小耳に挟んだことがあるんだけど… これって本当?)。
「赤坂小町」という名前は、当時のTDKレコードの所在地であった『赤坂』を使って『漢字4文字のバンド名をつけてほしい』と依頼されたある雑誌編集者によって名付けられた、雑誌上(集英社ヤングセンスか)での公募で付けられた、などの説がある。
香ちゃんはTBSそばの信号の「赤坂小前」の表示を見ると赤坂小町を思い出してしょうがない、と言っていたっけ。
2014年11月追記:
オーディションが行われている時のメンバーの写真が載っているサイトを見つけた。
当時、香ちゃん15歳、あっこちゃん18歳、登茂ちゃん17歳、加奈ちゃん18歳、きょんちぁん17歳。
2014年12月30日にあっこちゃんと加奈ちゃん+BANさん&Graceさんで、「Go 50 Go 〜おかげさまで半世紀〜」(サブタイトルをGO 50→60と題して還暦までやり切りました!)というライブをやるので、月日の流れは速いと思わざるをえない。
この雑誌写真のページ最下段左下が鈴木祥子さんだという(当時は山崎祥子名義で活動していた??)。
2017年8月追記:
赤坂小町のオーディションは、集英社ヤングセンス後援があったので結構広告を出していた模様。
雑誌だったり、チラシだったり、駅貼りのポスターだったり。
きょんちぁんは雑誌の広告で、あっこちゃんはお母さんから渡されたチラシで。
秦野でのライブのMCによると、当時高校を辞めたがっていた香ちゃんは、駅貼りのポスターを見つけた友達から「これなら高校を辞める口実になるよ」と教えてもらった。
当日は「図書館に勉強しに行く」と、明らかにバレバレな嘘をついてベースを担いでオーディションを受けに行った。
オーディションを受けたことは合格通知が届いてからの事後報告だったそうだ。
2023年8月追記:
1988年1月6日放送分夜のヒットの歌前トークによると、オーディション審査基準こんな感じだったという。
・品行方正
・身長155〜165cm
・年齢16〜18歳
・容姿端麗
・中流サラリーマン家庭の子女
・(オーディション当日は)ひざ上のミニスカートまたは半ズボン着用のこと
これに対し、サブ司会の古舘伊知郎さんは
私、引っ掛かったのはですね、
なんでロックなのに中流サラリーマン家庭の子女なんだろう。
関係ないじゃないですか、そんなもの。
と、おっしゃっていた。
1883年当時はバンドブーム以前。
ロックをやることにまだまだ偏見のあった時代だな、ということを窺わせる審査基準に対しての鋭いコメントだったと思う。
初期の赤坂小町の構成
渡辺敦子:ギター、中山加奈子:ギター、富田京子:ドラム、今野登茂子:キーボード、奥居香:ベース。
メインボーカルはまだ決まっていなかった。
合宿生活開始。
期間は1983年4月10日〜1984年7月29日まで。香ちゃんは1ヶ月遅れで参加
メンバー5人のほかに、当時女優の卵で同じ事務所に所属していた木之内美穂さん(現在は生島企画室所属のタレント、メンバーは本名から「あきちゃん」と呼んでいた)と6人で生活していた。
1993年4月3日にNHK総合でプリプリの特番が放送された。
タイトルは「ヒーロー列伝 とっておきナイト プリンセス・プリンセス いつまでもGROWING UP」。
ラスト近くにプリプリのメンバーが西日暮里の合宿所を訪ねるシーンがあって、木之内さんがメンバーに内緒で先周りで待ち伏せしていて10年ぶりの再開を果たす。
NHKクロニクルの番組詳細ページ "http://www2.nhk.or.jp/archives/chronicle/edit=&or=&o=1&hitCount=0
過去に3〜4回ほどYouTubeにアップされてた時があった。
メンバーが合宿していた西日暮里探訪については「メンバーが合宿した西日暮里」をクリック。
なんと香ちゃんのブログの「2011年9月5日すみません(;_;)」に、木之内さんが「ミポリン」のハンドルで書き込みしていたのでびっくり!!
その日のブログ 2011年9月5日「すみません(;_;)」
木之内美穂さんのブログ https://ameblo.jp/kinouchi-miho/
5月29日、銀座の山野ホールで初ライブ。事務所が「1ヶ月で20曲弾けるようにさせます」と無茶な約束をした。
10月〜84年3月、「学園バラエティー・パンツの穴」(ニッポン放送、提供:学習研究社)に生徒役で赤坂小町が出演。
先生役:三宅裕司さん、生徒役:菊池桃子さん・赤坂小町。
学研から刊行されていた男性向けアイドル雑誌「BOMB」で、当時「パンツの穴」という投稿コーナーがあり、それが映画化された。
香ちゃんのブログによると、息子さんが入学した小学校になんと菊池さんの息子さんが通っていたそうで、そこからママ友になったとのこと。
で、ここに書かれているラジオ番組が「学園バラエティー・パンツの穴」のことのよう。
香ちゃんのブログ 2013年5月31日「ご縁」
菊池桃子さんのブログ 2013-05-28「香ちゃん」
2人のブログを見ると、性格タイプはまるで違うけれどなんかすごくいい関係なんだなぁ、というのがにじみ出ていてほっこりさせられる。
ほっこり感は菊池さんの性格からくるところも大きいみたい。
赤坂小町デビューする
1984年3月、TDKレコードよりシングル「放課後授業」でデビューする。
この前後の頃に当時ベースだった香ちゃんと、ギターだったあっこちゃんがパートチェンジした。
あっこちゃんはこのままギターを続けることに自信がなくなっていたようだ。
メインヴォーカルを決めよう、誰がやるのかということもあり、いちばん若い香ちゃんにというという話になった。
ヴォーカルとリズム楽器のベースは両立しづらい。
あっこちゃんは「私にベースをやらせてほしい」と香ちゃんに言い、話し合いの末パートチェンジが決まった。
香ちゃんはこれまで触ったことのないギターにチャレンジすることになった。
この時点での赤坂小町の構成
渡辺敦子:ベース、中山加奈子:ギター、富田京子:ドラム、今野登茂子:キーボード、奥居香:ボーカル・ギター。
これでほぼプリプリに近い形になる。
3月20日、デビューコンサート。
よみうりランド内のスケート場でやる予定にしていたが、大雪のため中止に。
スタッフは雨天中止をメンバーに伝えていなかったようで、メンバーは泣いてやりたいと訴え、ボーリング場でデビューコンサートをやった。
後に香ちゃんは「こっちも超アマチュア、スタッフサイトもすごいアマチュアで、サークル活動とクラブ活動が一緒になってプロの真似事をしようとして大失敗したという感じ、」と回想している。
7月5日2ndシングル「ひと夏のスキャンダル」(B面は「合宿しない?」歌、加奈ちゃん)リリース、3rdシングル「コアラボーイ コッキィ」(B面は「地図にない道」歌、登茂ちゃん)、ミニアルバム「コアラボーイ コッキィ」をリリース。
「明星ヘアカタログ84夏の号」にメンバー全員が掲載される。各自一人一人が名前入りで載る。
そのページはカタログの目次ページの2ページ目か3ページ目で、掲載アイドルの一覧になっており名前と顔写真と掲載ページが記されている。
同じページに聖子ちゃん・岡田有希子さん・原田知世さん・薬師丸ひろ子さん・富田靖子さん・倉沢淳美さん(わらべ)が載っている。
今思うと、とてもすごいこと。
当時私ら前後から上の世代は、髪型選びにこういうカタログ本を参考にしていた人も多かったのでは。
今はプリプリは伝説のガールズバントといわれたりするけど、当時の赤坂小町は世間的には無名だったから、メンバーのページを見る人はいたのかな?
「明星ヘアカタログ84夏の号」でPCで画像検索かけると、アイドルの写真が並んだボケた目次ページ画像が出てくる。
タブレット端末だとあまりボケてない。
「赤坂小町」で画像検索かけると「昼下がりのプール遊び」と題した見開きの画像が出てくる
。
右下に106ページとあるので、これが内容らしい。106〜107の見開きで2ページ分。
目次を確認すると108ページに聖子ちゃんなので。
11月、「掟破りの放課後カリキュラム」を立風書房から出版。
「Hっぽい話をしてそれを本にまとめたことがある」というのを聞いているので、この本のことを指していると思われる。
後に「DIAMONDS」で大ブレークすると、その人気に便乗してこの本をメンバーに無断で再販しようとしたらしい。
が色々あって再販されることはなかった。
この本のAmazonのページ 掟破りの放課後カリキュラム
赤坂小町時代のライブは所属事務所の親会社TDKの工場回りと、レコード販促のためのスーパー等の商業施設でのミニコンサートがほとんどだった。
デパートなどの近所から「うるさい」と苦情が来てやめさせられることもあったという。
香ちゃんは子どもの頃から自家中毒を抱えていた。
自家中毒とは、周期性嘔吐症・アセトン血性嘔吐症とも言われ、精神的なストレスからくる自律神経の一時的な障害で、顔色が悪い、腹痛、頭痛、食欲不振を訴え嘔吐を繰り返すそうだ。
子どもがかかりやすく、大人になると治るものらしい。
この頃は精神的にきついことがあるとストレス性のじんましんができたという。
合宿生活時代にかなりひどいじんましんが出たことがあり、実家から「もう帰ってらっしゃい」と言われ、半年ほどで実家に戻る。
最近のブログ(2010-10-27分)でじんましんが出てかゆい〜と書いていたので体質はそう簡単に直らないということなんだろうか。
デビューシングル「放課後授業」のジャケット
ジャケットからわかるようにこの当初は香ちゃんがベースだった。
この後あっこちゃんと香ちゃんがパートチェンジをする。
2ndシングル「ひと夏のスキャンダル」のジャケット
。
3rdシングル「コアラボーイ コッキィ」のジャケット
TV東京系で放映されたアニメ「コアラボーイ コッキィ」の主題歌だった。
B面の「地図にない道」はアニメのエンディング。
ミニアルバム「コアラボーイ コッキィ」のジャケット
写真2点「いつも心にダイアモンド」口絵より 1983年
左より 奥居、渡辺、中山、今野、富田
1983年8月、山野楽器のイベントに参加した時。
アイドルバンドとしてデビューして、初々しくてかわいらしい感じ。
後列左より 今野、中山、渡辺
前列左より 富田、奥居
これらの写真を見てわかるようにオーディションでのメンバーの選出はアイドルっぽい容姿が重視された。
特に登茂ちゃん・香ちゃん・きょんちゃんの3人を見ているとアイドル風のルックス重視で選んだなという感じがする。
このオーディションを企画したのは内田勝啓氏という人物だった。TDKレコードで「赤坂小町」のプロジェクトの責任者であった。
TDKレコードの前にいた会社で「横浜銀蝿」を手掛けたことがあるそうだ。
当時TDKレコードの社内では「アイドルグループじゃないんだから、オーディションで集めたメンバーでバンドなんか作れるはずがない」とオーディション実施に反対の声が多かったようだ。
事実、もめてオーディションのプロジェクトリーダーの内田氏は赤坂小町結成後まもなく、TDKグループ内別会社へ移動させられる。
社内は反対派が多いためもあってかマネジメント面も充分ではなく、これで赤坂小町は宙ぶらりんの状態になった。
宙ぶらりんになったメンバーを救ってくれる人が現れた。プロデューサーの鷲田一博氏である。
鷲田氏のおかげでデビューにまでこぎつけた。彼がいなかったらこの先はなかったと言ってよい。
が、事務所のバックアップはあまりなかったようだ。(はっきり言ってお荷物扱い?)
ライブをやる場所も親会社のテープ工場やスーパーの屋上だったりした。
このままじゃはこの先は明るくないと移籍を考えることになる。
84年の11月頃、外部からマネージャーが来た。
移籍したほうが良いと説得される。
メンバーは昼間の練習とは別に夜間に別スタジオで自主練習をしていた。
昼間の練習は事務所の人がいてあれこれ言われるので、自分たちのやりたいことができなかったそうだ。
自分たちでスタジオをを借りるために名乗った別名が「ピアス」である。
5人でがんばろうと誓いのピアスを開けたというエピソードがある。
これでさらに結束を固めたんだね。
この自主練習での曲作りのテーマは「納豆ゼリー」。
納豆とゼリーは普通は別々に食べるけど、ひょっとしたら一緒に食べても美味しいんじゃないか、何事も先入観を捨ててやってみようということだった。
プリプリになってから発表された曲のいくつかの原型がこの頃に作られた。
「赤坂小町」
1996年3月25日リリース。
1.ようこそコアラちゃん (作詞:岩里祐穂、作曲:和田泉)
2.コアラボーイコッキィ (作詞・作曲:長沢ヒロ)
3.可愛いラーラ (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
4.Sweet Paradise (作詞:岩里祐穂、作曲:和田泉)
5.ワルサをしなけりゃはじまらない (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
6.地図にない道 歌:今野登茂子 (作詞・作曲:恩田久義)
7.パパとママのタンゴ (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
8.おやすみコッキィ (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
9.放課後授業 (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
10.準備はOK! (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
11.ひと夏のスキャンダル (作詞:岩里未央/Heat Berry、作曲:岩里祐穂)
歌一部分:今野登茂子
12.合宿しない? (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
歌:中山加奈子
1〜8曲目までがミニアルバムコアラボーイコッキィから。
9〜10曲目は1stシングル、11〜12曲目は2ndシングルから。
このCDはプリプリの人気に便乗しての発売だったらしい。
この時期に発売すれば確実に売れる、解散するんだからもういいだろうとか、なんかそんな感じが見え隠れする。
だけどすぐに回収されてしまった。
回収された理由は、メンバーや事務所(シンコー)から了承を取ってなくてクレームが付いたためだといわれている。
やっぱりそうなんだね。
当時、このCDが店頭に並んでるのを見て、え、これまで出しちゃっていいのって思った。
買っちゃったけど…
香ちゃんのほかに歌ってる加奈ちゃんと登茂ちゃんが後にソロでCD出してるんだよね。
「岩里未央」さんは岩里祐穂さんと同一人物ではなく、作曲家の三浦一年さんと組んだユニットペンネーム。
岩里祐穂さんは1980年「いわさきゆうこ」の名義でシンガーソングライターとして活動し、その後、1983年に堀ちえみさんに提供した「さよならの物語」で作詞・作曲家デビュー。
現在は「岩里祐穂」名義で活動しており、代表曲に今井美樹さんの「PIECE OF MY WISH」「Miss You」「瞳がほほえむから」他。坂本真綾さん・中川翔子さん・ももいろクローバーZなどにも詞を提供している。
私見「TDKレディースバンド募集 −新ビートルズ神話誕生−」
あくまでも私個人の見方です。
1983年2月20日、日本テレビのスタジオで女性バンドを結成するためパートごとのオーディションが行われた。
キャッチコピーは「1983年、新ビートルズ神話誕生!」。
当時、このオーディションのポスターやチラシ等のキャッチコピーを見てこのオーディションに応募してきた子は、「ビートルズのようなメジャーな女性ロックバンドを作るためのオーディションをやるんだ」と思ったことは想像に難くない。
ところがオーディションを主催したTDKレコード側は、内田氏の言葉を借りて言うなら「ロック志向の強い子は避けて素人っぽい子を選んで完全にアイドルグループとしてのバンドを作ろうとしていた」のであった。
リーダーの渡辺さんも著書「いつも心にダイアモンド」で、主催者側は「楽器をもったキャンディーズ」をイメージしていたと回顧している。
メンバーがこのオーディションに応募した理由は「ギターで飯を食っていこうと考えていた」(中山)、
「自分が客観的に見てどれだけの実力があるのか知りたかった。このオーディションのバンドが売れれば話のタネにもなる。」(富田)、
「一流の先生についてキーボードが学べる」(今野)、
「メジャーへのチャンスはそうなかなかあるもんじゃない、このチャンスしかない」(渡辺)、
「このオーディションを受けれなかったことで後悔したくはない」(奥居)。
ほかの応募者も「メジャーへのチャンス」「自身の客観的な実力レベルが知りたい」などいろいろあったと思うけれど、募集する側と応募した側との意識のズレ、考え方のズレは最初からあった事は否めない。
赤坂小町がうまくいかなかったのは、募集する側のコンセプト、レコード会社所属のアーティスト・公募で集めたメンバーをアイドルバンド的に育てる等が時代遅れであったことの他に、キャッチコピー「新ビートルズ神話誕生」にもあったと私は思っている。
さて、あなたは「新ビートルズ神話」と聞いて何をイメージする?
それはメジャーなロックバンドを作ることであって、かわいい・ルックスだけが取り柄のアイドルバンド作ることじゃないはず。
内田氏を初めオーディションの主催者側は売り込みは会社の力で何とかなると思っていたんだろうか。
仮に内田氏が移動にならず内田氏の力で売り込んだ所で赤坂小町は売れたのだろうか? 私は売れなかったと思う。
メンバーの著書でも書かれているように、「メンバーの音楽の志向もばらばらで同じ目標を持ててない」、それと「どういう音楽性でいくのかというコンセプトがしっかり固まっていなかった」というのが大きな理由だろう。
そして一番最大の誤算はバンドは成長するのに時間がかかるというのを考えていなかったか、むしろそれは二の次と考えたか、そこにあったと思う。
考え方も音楽の志向もばらばらのメンバーがまとまり結束を固めていくにはそれなりの時間がかかる。
現実に赤坂小町がPRINCESS PRINCESSになりチャンスを掴み駆け上がっていく手応えを実感するまで、幾多の紆余曲折と約4年の年月がかかった。
私見追記:
赤坂小町で検索していたら、
http://okwave.jp/qa/q5648807.html
という質問サイトでうちのサイトが参考サイトとして紹介されていてびっくり!!
この質問者の方は赤坂小町について、「当時はまだロックバンドをやること自体が「ツッパリ」と見られがちで、そういう風に見られないようにするためアイドル路線で売るしかなかったのでは」と見ている。
この時代はロックバントをやる=不良・ツッパリだという見方がまだまだ根強かった。
確かに、この当時は80年デビューの聖子ちゃんやキョンキョン(小泉今日子さん)などの82年組が華々しく活躍しているアイドル時代全盛期だったから、売る方は「楽器が弾けるアイドルグループ」が一番良いと判断したんだろう。
だけどオーディションに応募した側は、ロックバントをやる=不良・ツッパリと見られるかもしれないけれど、それは音楽をやるのとは別の偏見であって、そんなことよりもあっこちゃんのように「数少ないメジャーへのチャンス」として応募した人もそれなりにいただろうと思う。
2012年のライブのMCかインタビューでメンバーが、「AKB48が楽器を持っていたのを見て、メンバーを集めたプロデューサーがやりたかったのは実はこういうことだったんじゃないかと思った」と言っていた。
そうなると前述の「当時はまだロックバンドをやること自体が〜」という見方は成立しなくなる。
オーディションでメンバーを集めた初代プロデューサー内田氏はあくまでも「楽器が弾けるアイドルグループ」で売ることだけを考えて、やがて成長してロックバンドへ転換していくことは想定していなかったし、頭をかすめたとしてもそこまでグループは持たないと考えていたのではと思う。まず売れればそれで良しと。
その当時はアイドル時代全盛期でまだバンドブーム以前だったから。
次にプロデューサーとなった鷲田氏はかつてバンドを組んでいた経験から、最終的にはオリジナルをやれるようなバンドを目指していく方がよいと判断して楽曲作りをメンバーにやらせるようにした。
鷲田氏の方は内田氏と違い、初めはアイドルバンドの形で売って、実力がついて成長して徐々にロックバンドへと転換していくことを視野に入れていたのではないかと思われる。
これらのことがTDKサイドの考える方向と違っていたので、移籍を考えるきっかけの一つになったんじゃないかと私は見ている。
自分がプリプリを聴き出した頃、うちの親が「普通の女の子がロックバンドをやる時代になったんだねぇ」と言っていたことを思い出す。
自分の親は「自分が若い頃はロックバントをやるのはおろかロックを聴くのも不良だと学校に言われてたからね」と言ってた。
おまけ
赤坂小町時代とプリプリ時代で同じ並びの写真があったので載せてみた。
顔立ちに面影があったりするが、がらりと雰囲気は変わる。そりゃそうだ、アイドルとして売り出していた頃とロックバンドじゃ。
その1
1996年に発売されすぐに回収となった赤坂小町のCDジャケット内側より。
当時のビデオの映像(ひと夏のスキャンダルのプロモーションビデオ)
からか画像はあまり良くない。
いずれも左より、奥居、中山、今野、富田、渡辺
1996年5月31日の日本武道館ラストライブを
収録したビデオのジャケット。
その2
並びは微妙に変わるけど、こっちのほうが比較しやすいかも。
赤坂小町時代。↑
いずれも左より、後列左より 今野、中山、渡辺
前列左より 富田、奥居
いい年月の重ね方をしていて、
いい感じがにじみ出ているという意見に同感です。↓
2012年の再結成時。↑
いずれも左より、後列左より 中山、今野、渡辺
前列左より 岸谷、富田
赤坂小町のオーディション時
メンバーが合宿した地、西日暮里 〜メンバーが合宿していた場所を探して〜
音楽座時代 〜JULIAN MAMAからプリンセス・プリンセスへ〜
LIVE DATE 赤坂小町時代からのPRINCESS PRINCESS全ライブデータ
富田京子オフィシャルブログ 記事 2016-03-21 Dear赤坂小町
岸谷香オフィシャルブログ 記事 2011年9月5日「すみません(;_;)」
木之内美穂オフィシャルブログ https://ameblo.jp/kinouchi-miho/
岸谷香オフィシャルブログ 記事 2013年5月31日「ご縁」
菊池桃子オフィシャルブログ 記事 2013-05-28「香ちゃん」
菊池さんのブログはLineブログに移っており、アメブロのブログ自体が削除されています。
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