この時点での赤坂小町の構成
渡辺敦子:ベース、中山加奈子:ギター、富田京子:ドラム、今野登茂子:キーボード、奥居香:ヴォーカル・ギター。
これでほぼプリプリに近い形になる。
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3月20日、デビューコンサート。
よみうりランド内のスケート場でやる予定にしていたが、大雪のため中止に。
スタッフは雨天中止をメンバーに伝えていなかったようで、メンバーは泣いてやりたいと訴え、ボーリング場でデビューコンサートをやった。
後に香ちゃんは「こっちも超アマチュア、スタッフサイトもすごいアマチュアで、サークル活動とクラブ活動が一緒になってプロの真似事をしようとして大失敗したという感じ、」と回想している。
7月5日2ndシングル「ひと夏のスキャンダル」(B面は「合宿しない?」歌、加奈ちゃん)リリース、3rdシングル「コアラボーイ コッキィ」(B面は「地図にない道」歌、登茂ちゃん)、ミニアルバム「コアラボーイ コッキィ」をリリース。
11月、「掟破りの放課後カリキュラム」を立風書房から出版。
「Hっぽい話をしてそれを本にまとめたことがある」というのを聞いているので、この本のことを指していると思われる。
後に「DIAMONDS」で大ブレークすると、その人気に便乗してこの本をメンバーに無断で再販しようとしたらしい。
が色々あって再販されることはなかった。
この本のAmazonのページ
赤坂小町時代のライブは所属事務所の親会社TDKの工場回りと、レコード販促のためのスーパー等の商業施設でのミニコンサートがほとんどだった。
デパートなどの近所から「うるさい」と苦情が来てやめさせられることもあったという。
香ちゃんは子どもの頃から自家中毒を抱えていた。
自家中毒とは、周期性嘔吐症・アセトン血性嘔吐症とも言われ、精神的なストレスからくる自律神経の一時的な障害で、顔色が悪い、腹痛、頭痛、食欲不振を訴え嘔吐を繰り返すそうだ。
子どもがかかりやすく、大人になると治るものらしい。
この頃は精神的にきついことがあるとストレス性のじんましんができたという。
合宿生活時代にかなりひどいじんましんが出たことがあり、実家から「もう帰ってらっしゃい」と言われ、半年ほどで実家に戻る。
最近のブログ(2010-10-27分)でじんましんが出てかゆい〜と書いていたので体質はそう簡単に直らないということなんだろうか。
デビューシングル「放課後授業」のジャケット

ジャケットからわかるようにこの当初は香ちゃんがベースだった。
この後あっこちゃんと香ちゃんがパートチェンジをする。
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2ndシングル「ひと夏のスキャンダル」のジャケット

3rdシングル「コアラボーイ コッキィ」のジャケット

TV東京系で放映されたアニメ「コアラボーイ コッキィ」の主題歌だった。
B面の「地図にない道」はアニメのエンディング。
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ミニアルバム「コアラボーイ コッキィ」のジャケット

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写真2点「いつも心にダイアモンド」口絵より 1983年

左より 奥居、渡辺、中山、今野、富田
1983年8月、山野楽器のイベントに参加した時。
アイドルバンドとしてデビューして、初々しくてかわいらしい感じ。
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後列左より 今野、中山、渡辺
前列左より 富田、奥居
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これらの写真を見てわかるようにオーディションでのメンバーの選出はアイドルっぽい容姿が重視された。
特に香ちゃん・登茂ちゃん・きょんちゃんの3人を見ているとアイドル風のルックス重視で選んだなという感じがする。
このオーディションを企画したのは内田勝啓氏という人物だった。TDKレコードで「赤坂小町」のプロジェクトの責任者であった。
TDKレコードの前にいた会社で「横浜銀蝿」を手掛けたことがあるそうだ。
当時TDKレコードの社内では「アイドルグループじゃないんだから、オーディションで集めたメンバーでバンドなんか作れるはずがない」とオーディション実施に反対の声が多かったようだ。
事実、もめてオーディションのプロジェクトリーダーの内田氏は赤坂小町結成後まもなく、TDKグループ内別会社へ移動させられる。
社内は反対派が多いためもあってかマネジメント面も充分ではなく、これで赤坂小町は宙ぶらりんの状態になった。
宙ぶらりんになったメンバーを救ってくれる人が現れた。プロデューサーの鷲田一博氏である。
鷲田氏のおかげでデビューにまでこぎつけた。彼がいなかったらこの先はなかったと言ってよい。
が、事務所のバックアップはあまりなかったようだ。(はっきり言ってお荷物扱い?)
ライブをやる場所も親会社のテープ工場やスーパーの屋上だったりした。
このままじゃはこの先は明るくないと移籍を考えることになる。
84年の11月頃、外部からマネージャーが来た。
移籍したほうが良いと説得される。
メンバーは昼間の練習とは別に夜間に別スタジオで自主練習をしていた。
昼間の練習は事務所の人がいてあれこれ言われるので、自分たちのやりたいことができなかったそうだ。
自分たちでスタジオをを借りるために名乗った別名が「ピアス」である。
5人でがんばろうと誓いのピアスを開けたというエピソードがある。
これでさらに結束を固めたんだね。
この自主練習での曲作りのテーマは「納豆ゼリー」。
納豆とゼリーは普通は別々に食べるけど、ひょっとしたら一緒に食べても美味しいんじゃないか、何事も先入観を捨ててやってみようということだった。
プリプリになってから発表された曲のいくつかの原型がこの頃に作られた。
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「赤坂小町」
1996年3月25日リリース。
1.ようこそコアラちゃん (作詞:岩里祐穂、作曲:和田泉)
2.コアラボーイコッキィ (作詞・作曲:長沢ヒロ)
3.可愛いラーラ (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
4.Sweet Paradise (作詞:岩里祐穂、作曲:和田泉)
5.ワルサをしなけりゃはじまらない (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
6.地図にない道 歌:今野登茂子 (作詞・作曲:恩田久義)
7.パパとママのタンゴ (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
8.おやすみコッキィ (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
9.放課後授業 (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
10.準備はOK! (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
11.ひと夏のスキャンダル 歌一部分:今野登茂子 (作詞:岩里未央/Heat Berry、作曲:岩里祐穂)
12.合宿しない? 歌:中山加奈子 (作詞:岩里祐穂、作曲:岩里未央)
1〜8曲目までがミニアルバムコアラボーイコッキィから。9〜10曲目は1stシングル、11〜12曲目は2ndシングルから。
このCDはプリプリの人気に便乗しての発売だったらしい。
この時期に発売すれば確実に売れる、解散するんだからもういいだろうとか、なんかそんな感じが見え隠れする。
だけどすぐに回収されてしまった。
回収された理由は、メンバーや事務所から了承を取ってなくてクレームが付いたためだといわれている。
やっぱりそうなんだね。
当時、このCDが店頭に並んでるのを見て、え、これまで出しちゃっていいのって思った。
買っちゃったけど…
香ちゃんのほかに歌ってる加奈ちゃんと登茂ちゃんが後にソロでCD出してるんだよね。
岩里祐穂さんと岩里未央さんは同一人物との事。
1980年「いわさきゆうこ」の名義でシンガーソングライターとして活動し、その後、1983年に堀ちえみさんに提供した「さよならの物語」で作詞・作曲家デビュー。
現在は「岩里祐穂」名義で活動しており、代表曲に今井美樹さんの「PIECE OF MY WISH」「Miss You」「瞳がほほえむから」他。
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私見「TDKレディースバンド募集 −新ビートルズ神話誕生−」 あくまでも私個人の見方です。
1983年2月20日、日本テレビのスタジオで女性バンドを結成するためパートごとのオーディションが行われた。
キャッチコピーは「1983年、新ビートルズ神話誕生!」。
当時、このオーディションのポスターやチラシ等のキャッチコピーを見てこのオーディションに応募してきた子は、「ビートルズのようなメジャーな女性ロックバンドを作るためのオーディションをやるんだ」と思ったことは想像に難くない。
ところがオーディションを主催したTDKレコード側は、内田氏の言葉を借りて言うなら「ロック志向の強い子は避けて素人っぽい子を選んで完全にアイドルグループとしてのバンドを作ろうとしていた」のであった。
リーダーの渡辺さんも著書「いつも心にダイアモンド」で、主催者側は「楽器をもったキャンディーズ」をイメージしていたと回顧している。
メンバーがこのオーディションに応募した理由は「ギターで飯を食っていこうと考えていた」(中山)、
「自分が客観的に見てどれだけの実力があるのか知りたかった。このオーディションのバンドが売れれば話のタネにもなる。」(富田)、
「一流の先生についてキーボードが学べる」(今野)、「メジャーへのチャンスはそうなかなかあるもんじゃない、このチャンスしかない」(渡辺)、
「このオーディションを受けれなかったことで後悔したくはない」(奥居)。
ほかの応募者も「メジャーへのチャンス」「自身の客観的な実力レベルが知りたい」などいろいろあったと思うけれど、募集する側と応募した側との意識のズレ、考え方のズレは最初からあった事は否めない。
赤坂小町がうまくいかなかったのは、募集する側のコンセプト、レコード会社所属のアーティスト・公募で集めたメンバーをアイドルバンド的に育てる等が時代遅れであったことの他に、キャッチコピー「新ビートルズ神話誕生」にもあったと私は思っている。
さて、あなたは「新ビートルズ神話」と聞いて何をイメージする?
それはメジャーなロックバンドを作ることであって、かわいい・ルックスだけが取り柄のアイドルバンド作ることじゃないはず。
内田氏を初めオーディションの主催者側は売り込みは会社の力で何とかなると思っていたんだろうか。
仮に内田氏が移動にならず内田氏の力で売り込んだ所で赤坂小町は売れたのだろうか? 私は売れなかったと思う。
メンバーの著書でも書かれているように、メンバーの音楽の志向もばらばらで同じ目標を持ててない、それとどういう音楽性でいくのかというコンセプトがしっかり固まっていなかったのというのが大きな理由だろう。
そして一番最大の誤算はバンドは成長するのに時間がかかるというのを考えていなかったか、それは二の次と考えたか、そこにあったと思う。
考え方も音楽の志向もばらばらのメンバーがまとまり結束を固めていくにはそれなりの時間がかかる。
現実に赤坂小町がPRINCESS PRINCESSになりチャンスを掴み駆け上がっていく手応えを実感するまで、幾多の紆余曲折と約4年の年月がかかった。
私見追記:
赤坂小町で検索していたら、
http://okwave.jp/qa/q5648807.html
という質問サイトでうちのサイトが参考サイトとして紹介されていてびっくり!!
この質問者の方は赤坂小町について、「当時はまだロックバンドをやること自体が「ツッパリ」と見られがちで、そういう風に見られないようにするためアイドル路線で売るしかなかったのでは」と見ている。
この時代はロックバントをやる=不良・ツッパリだという見方がまだまだ根強かった。
確かに、この当時は80年デビューの聖子ちゃんやキョンキョン(小泉今日子)などの82年組が華々しく活躍しているアイドル時代全盛期だったから、売る方は「楽器が弾けるアイドルグループ」が一番良いと判断したんだろう。
だけどオーディションに応募した側は、ロックバントをやる=不良・ツッパリと見られるかもしれないけれど、それは音楽をやるのとは別の偏見であって、そんなことよりもあっこちゃんのように「数少ないメジャーへのチャンス」として応募した人もかなりいただろうと思う。
2012年のライブのMCかインタビューでメンバーが、「AKB48が楽器を持っていたのを見て、メンバーを集めたプロデューサーがやりたかったのは実はこういうことだったんじゃないかと思った」と言っていた。
そうなると前述の「当時はまだロックバンドをやること自体が〜」という見方は成立しなくなる。
オーディションでメンバーを集めた初代プロデューサー内田氏はあくまでも「楽器が弾けるアイドルグループ」で売ることだけを考えて、やがて成長してロックバンドへ転換していくことは想定していなかったし考えてもいなかったのではと思う。
その当時はアイドル時代全盛期でまだバンドブーム以前だったから。
次にプロデューサーとなった鷲田氏はかつてバンドを組んでいた経験から、オリジナルをやれるようなバンドを目指していく方がよいと判断して楽曲作りをメンバーにやらせるようにした。
鷲田氏の方は内田氏と違い、初めはアイドルバンドの形で売って、実力がついて成長して徐々にロックバンドへと転換していくことを視野に入れていたのではないかと思われる。
これらのことがTDKサイドの考える方向と違っていたので、移籍を考えるきっかけの一つになったんじゃないかと私は見ている。
自分がプリプリを聴き出した頃、うちの親が「普通の女の子がロックバンドをやる時代になったんだねぇ」と言っていたことを思い出す。
自分の親は自分が若い頃はロックバントをやるのはおろかロックを聴くのも不良だと学校に言われてたからねと言ってた。
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おまけ、赤坂小町時代とプリプリ時代で同じ並びの写真があったので載せてみた。
顔立ちに面影があったりするが、がらりと雰囲気は変わる。そりゃそうだ、アイドルとして売り出していた頃とロックバンドじゃ。
その1 1996年に発売されすぐに回収となった赤坂小町のCDジャケット内側より。

当時のビデオの映像(ひと夏のスキャンダルのプロモーションビデオ)からか画像はあまり良くない。
いずれも左より、奥居、中山、今野、富田、渡辺
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1996年5月31日の日本武道館ラストライブを収録したビデオのジャケット。

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その2 こっちのほうが比較しやすいかも。

赤坂小町時代。
いずれも左より、後列左より 今野、中山、渡辺
前列左より 富田、奥居
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1995年の正月武道館ライブ「謹賀新年95 PRESENTS」のテレカ。

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→ メンバーが合宿した地、西日暮里 へ行く
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