PRINCESS PRINCESS時代 1 1986年〜1991年

すべてを網羅し切れていないことをお断りしておきます。

1986年

「漣流」(和田彰二著 音楽出版社)によると、 移籍後初となるアルバム(TELEPORTATION(テレポーテーション))製作中、
シンコーミュージックの社長草野昌一氏はプリプリのために自ら作詞した
「バイバイダメ男」と言う楽曲を用意する。
けれど「この曲はやりたくない」とメンバーに断られてしまう。
この曲は社長がかつて作詞家漣健児として活躍してきたことを伝え、
それに対してメンバーが色々と教えて下さいと言ってきた事へ答える作品だった。
どうやら社長が考える女の子バンド像とプリプリはかけ離れていたようだ。
オールディーズっぽいものを歌ったり、
自分たちの曲を英語で歌ったりとそういう路線を考えている節があったらしい。

この頃は社長から渡辺美里さんがヒットすれば「渡辺美里みたいな曲をやらなきゃ」、
中村あゆみさんがヒットすれば「中村あゆみみたいな曲をやらなきゃ」と言われ続ける。
メンバーは「自分たちの信じたことをやらなきゃダメだ、もう人には惑わされないぞ」
という気持ちになっていたため聞かなかったらしい。
実績を残すようになると言われなくなってきたそうだ。
香ちゃんは事務所の先輩であったレベッカのNOKKOさんみたく歌って踊れるボーカルを目指せと言われたけれど、
何が何でも絶対楽器は放さないぞとギターを手放さなかった。
当時は歌って踊れるというのが流行だった。

また社長はバンドの名前を変えてはどうかとか、
メンバーをフルネームで呼ぶのではなくはなくファーストネームで呼んだらどうかとか提案するけれど、
マネージャーの市ヤンに「PRINCESS PRINCESSはいい名前なので変える必要はないと思います。
メンバーの名前もそれぞれにいいのでその必要はありません」と言われてしまう。
そしてバントの愛称を「ぺぺ」にしようと考え、
「私たちをぺぺと呼んでください」というPOPを作ったりしたけれど
「ぺぺ」という愛称は定着せず、最終的には略称の「プリプリ」が定着した。

ついでに、「漣流」にはこんなことも書かれている。
社長は自分で英訳した「19 GROWING UP」の歌詞を
市ヤン(マネージャーの市村恵美子さん)に渡し、英語で歌ってみないかと提案した。 またオールディーズのカバーもやらないかとも提案したが、市ヤンは社長の提案をことごとく断った。
プリプリはオリジナル曲で勝負したかったからだ。
社長にはプリプリの海外進出の構想もあり、市ヤンを通じてメンバーにも伝えられた。
市ヤンは「やるんだったら日本語で」という記憶がある、
加奈ちゃんは「地に足をつけてやりたかったから全然興味はなかった」と話しており、実現はしなかった。
加奈ちゃんは「今思えば、やっていたらウケていたかもしれないなと思う」とも話しているが、
これは地に足つけてやって成功したから言えることなんではないかと自分は思う。
「Diamonds」のヒットの勢いに乗って海外へ、なんてやってたらコケてた(可能性は非常に高いのでは)と思う。

プリプリがヒットチャートの常連になった頃、加奈ちゃんにソロアルバムをやらないかという提案があった。
詳細は「漣流」を読んでもらうとして、社長は思いついたことをそのまま語ったらしい。
自分の考えだけど、社長は香ちゃん(おそらく間違いなく)や
登茂ちゃんにも同様にソロアルバムの提案をしたのではないかと思う。
もし、これが実現していたらプリプリの解散はもっと早くなっていた可能性もあったのではと思う。



1987年

4月6日放送分より、香ちゃんビデオジャムの司会となる。
司会になったのは、レベッカのNOKKOさんからデーモン小暮さんに
「奥居香は面白い」と推薦してもらったからだと番組内で言っている。
9月まではデーモン小暮&奥居香、以降は三浦洋一&奥居香、宮原学&奥居香となる。
三浦洋一さんからは塩水を使った「鼻うがい」を教えてもらったと言ってたね。

4月22日、1stシングル「恋はバランス」リリース。外部の作曲家の曲はこれが最後。

5月19日より、「TELEPORTATION TOUR」(〜6月29日)。

5月21日、1stアルバム「」リリース。初のフルアルバム。ここから1枚目と数える。

TELEPORTATIONジャケット

「TELEPORTATION(テレポーテーション)」
1987年5月21日リリース。1stアルバム。

1.ガールズ・ナイト
2.恋はバランス
3.言わないで
4.ソーロング ドリーマー
5.思い出の隙間
6.ユーアーマイ・スターシップ
7.海にひとしずく
8.ヒプノタイズド
9.モーション・エモーション
10.ヴァイブレーション

1stシングルでもある「恋はバランス」だけがメンバー以外の作曲である。
この曲以降、メンバー以外が作詞・作曲をすることはなかった。
作詞プロデュースとして作詞家の田口俊さんの名前がクレジットされている。
田口さんは当時のメンバーにとっての作詞の先生というべき存在だった。




Summer LoungeCD盤紙ジャケット

「Summer Lounge」
1987年6月11日リリース。
杉真理さんの呼びかけで集まったアーティストによる
夏の曲を集めたオムニバスアルバム。

1. Holiday Company  Pops All Stars
2. グッバイ ロッカフラボーイ  杉真理
3. もう海へは誘わないで  Hi-Fi Set
4. キュウリ de Vacation  種ともこ
5. Vacances Bleu  南佳孝
6. 8月生まれ  須藤薫
7. NIGHT SKATER  楠瀬誠志郎
8. Water Sculpture - ポセイドン、そして水の彫刻  中西俊博
9. 世界でいちばん熱い夏  PRINCESS PRINCESS
10. パーティーはすぐはじまりさ  Pops All Stars

2007年8月27日に杉真理さんのデビュー30周年ということで、
CD盤紙ジャケット仕様にて復刻発売された。
その際「Holiday Company」「グッバイ ロッカフラボーイ」の
ライブバージョンがボーナストラックとして収録された。



7月16日、2ndシングル「世界でいちばん熱い夏」リリース。
 ソニーの夏のオムニバスアルバム「Summer Lounge」からのシングルカット。

9月3日より、「TELEPORTATION TOUR 2 〜世界でいちばん愛してる〜」(〜11月21日)。

9月20日、NAONのYAON第1回目に出演。会場:日比谷野外音楽堂。
 NAONのYAONはSHOW-YAの呼びかけで始まった、
 出演者・スタッフが女性オンリーのロックフェスティバル。
 1991年まで毎年秋に開催され、プリプリは毎回トップバッターだった。

10月より、ラジオ岩手放送・新潟放送・福井放送で「サウンド・コレクション」のパーソナリティをする(放送日時などの詳細は不明)。

11月21日、3rdシングル「MY WILL」リリース。
 スポーツ用品店ヴィクトリアのCMソングに起用される。
CMのオンエアで知名度が上がり始める。



1988年

1月6日、「MY WILL」でフジテレビ系放送の夜のヒットスタジオに初出演する。

1月15日、「MY WILL」でテレビ朝日系放送のミュージックステーションに初出演する。

1月22日・23日、恵比寿ファクトリーUでライブ。ここで渋谷公会堂ライブが告知される。

2月26日、4thシングル「19 GROWING UP-ode to my buddy-」、2ndアルバム「HERE WE ARE」同時リリース。

HERE WE AREジャケット

「HERE WE ARE」
1988年2月26日リリース。2ndアルバム。

1.19 GROWING UP -ode to my buddy-
2.WONDER CASTLE
 『「WONDER CASTLE」』と題して
香ちゃんが登茂ちゃんの代筆で曲の解説をしている。
3.MY WILL
4.FLAME
5.KEEP ON LOVIN' YOU
6.GO AWAY BOY
 『「GO AWAY BOY」』と題して加奈ちゃんが曲の解説をしている。
7.SHE
8.ROMANCIN' BLUE
9.冗談じゃない
10.恋のペンディング

ソニーからもう一つのタイトル候補として「BAD MANNERS」というのも提示されたが、
メンバーは「私たちは別にお行儀は悪くはないよ」と強硬に却下した。



4月より、香ちゃんがNHK FM「FMリクエスト・アワー」東京地区のパーソナリティをする。 毎週土曜午後15時からの3時間生放送だった。

4月14日より、HERE WE ARE TOUR。

渋谷公会堂でのライブに先立って成功祈願として登山を行う。
場所は山梨県の身延山・七面山で山頂にあるお寺まで祈願に行った。
2022年10月21日放送分のラジオ番組「岸谷香のUnlock the heart」内で、
リスナーの質問に答える形でこんな話をしていた。
かつてインタビューで登山が趣味と答えたことがある。
音楽以外にやっていることと言ったらそれしかなかったからこう答えた。
その山は日帰りで行ける場所であること。
山頂の宿坊に泊まってご来光を拝むのが恒例になっていたこと。
最初に登山行ったのは最初の渋公の前年で渋公公演と同じ日付の4月17日だった。
渋公でライブができますようになどの祈願をしたら叶ったので、
何やら運命めいたものを感じたという。
以来、この登山は恒例行事となり最低毎年1回は行っていたそうだ。

4月17日、結成当初から目標の一つとして掲げていた渋谷公会堂でライブを行う。
 チケットは2時間でSOLD OUT。
 これを聞いたマネージャーの市ヤンがメンバーより先に大泣きし、
 見ていたメンバーは泣けなかったというエピソードは有名。
 市ヤンにとってはかなり感慨深いものがあったんだろうね。

5月21日、5thシングル「GO AWAY BOY」リリース。 資生堂の夏のキャンペーンソング「夏だ!フェアウィンド」に起用される(フェアウィンドはファンデーション)。 この曲はライブで2番の出だしが「くさいくどき文句 ダンボールに詰めて」に変わることがあった。

4月14日より、「PRINCESS PRINCESS PANIC TOURE [SUMMER] 〜Dear my best friends〜」(〜8月31日)。

8月31日、横浜ノースピアでライブ(横浜港瑞穂埠頭米軍基地内)。
 ツアーのファイナル。これは横浜市の市制100年を記念したライブだった。
 日本人はシャトルバスで会場へ運ばれた。
 MCで武道館公演の発表をした伝説のライブ。

10月9日より、「PRINCESS PRINCESS 学祭TOUR」(〜11月19日)。

10月21日、6thシングル「GET CRAZY!」リリース。
 初めてドラマ「君が嘘ついた」の主題歌に起用される。

11月21日、3rdアルバム「LET'S GET CRAZY」リリース。

LET'S GET CRAZYジャケット

1988年11月21日リリース。3drアルバム。

1.GET CRAZY!
2.それなりに いいひと
3.STAY THERE
 『9つの魔法?/「STAY THERE」』と題してきょんちぁんが曲の解説をしている。
4.LOVE AND BLOOD
5.へっちゃら
6.夕陽がよんでいる
7.瞳だけはみつめない
8.ひとりじめ
9.ストリートウーマン
10.M
 『執念のタイトル「M」』と題してきょんちぁんが曲の解説をしている。
11.HEART STOMPIN' MUSIC

初めて買ったCD。初回盤。経年劣化で外箱は少しくたびれている。
最もロックテイストが強いアルバム。
注:アナログLP盤は全10曲で「夕陽がよんでいる」が収録されていない。



12月4日より、「PANIC TOUR[WINTER]〜LET'S GET CRAZY〜」。(〜89年2月19日)

自分はこの年の中頃、「世界でいちばん熱い夏」「19 GROWING UP」でプリプリのことを知る。
資生堂のCMの曲も同じバンドだと知ってすごく嬉しくなった。
当時のCMは歌っているアーティスト名が必ずしも画面の隅に出てこなかったので、
この曲は誰が歌っているのか探すのが大変だったから。
テープに「GET CRAZY!」「STAY THER」などを入れてバンドはカッコいいと思い、
「M」を聴いてこんな曲もやるんだと驚いた。「M」は名曲だよね。

12月31日〜1月1日、香ちゃんNHKラジオ第1「ゆく年 くる年」の司会をする。



1989年

1月23日〜25日、女性バンドとして初の日本武道館ライブを行う。  香ちゃんが三本締めのことを「三三七拍子」と言ってしまったのはご愛嬌。

4月、香ちゃんがパーソナリティのTBS(JRN系)ラジオ番組「ポップンルージュ」がスタート。
 スタート当初はパーソナリティーが日替わりの5人で、香ちゃんは水曜担当だった。
 そのほかのパーソナリティは、月曜:永井真理子、火曜:笹野みちる、木曜:谷村有美、金曜:長峰由紀(のち久宝留理子)。
 放送時間、毎週月〜金23:10〜24:00。
番組のテレホンカードが作られるが、初めは1枚に5人のパーソナリティーが写っているものだった。
リスナーから「5人で1枚はケチ臭い」とか「それぞれのカードを作ってほしい」
という要望が多数寄せられたため、すぐ各パーソナリティーのカードが作られた。
10年ぐらい前に、切手やカード類の即売会で、この香ちゃんのカードが1枚2万円ほどで売られているのを見たことがあった。
おそらく状態のいい良品だったんだろう。

4月21日、7thシングル「Diamonds(ダイアモンド)」リリース。
この曲でオリコンチャート1位を獲得し、ミリオンセラーを記録する。
シングルCDとして史上初のミリオンセラーだ。
これでプリプリは大ブレイクした。
ヒットの要因は、乗りやすく覚えやすいポップなメロディーの「Diamonds」と
c/wの「M」の組み合わせがあったからだと思う。
ポップ色が強かったので、GO AWAY BOYやGET CRAZY!あたりでファンになってロック色の強いバンド思った人からは
「え〜、こんなのもやるの?」とか言ったり、がっかりして離れてしまう人もいたようだ。
Diamondsのリリース後ツアーが始まったため、トップ10やベスト10の出演はライブ会場からの中継が多かった。
この頃はDiamondsでファンになった人が急増したため、
ライブではDiamondsとMで異様に盛り上がり、あとの曲ではいまひとつの盛り上がりということが多かった。
「Signs And Wonders」とか読み返してると都市部ほどそういうことが多かったみたい。

5月9日より、「PANIC TOUR'89 〜LET'S GET CRAZYU〜」。(〜7月30日)

DIAMONDSジャケット

「Diamonds」
1989年4月21日リリース。7thシングル。
c/w M。

Diamonds・M共にプリプリの代表曲。
アナログ盤はこれが最後。ここから完全にCDに移行する。
シングルCDとして初の100万枚以上の大ヒットとなった。

仮タイトルは「お年玉」。
当時お付き合いしていた彼のご両親からお年玉を頂いてしまい、
ルンルン気分の帰りの車の中でイントロからメロディが浮かんだという。
詳細は香ちゃんがオフィシャルフェイスブックの2012年6月22日の分に、
仮タイトルは…。/「Diamonds」』と題して
“今だから言える曲解説”で書いているのでそちらも読んでみて。

2011年度のセンター試験、現代社会第1問、配点22。
これにこの曲が取り上げられた。
『ただいまの曲はプリンセスプリンセスの「Diamonds」でした。
この曲は1989年に発売され、ミリオン、つまり100万枚以上出荷された
日本で初めてのシングルCDと言われています。<以下略>』
時代を象徴する曲とみなされているということだろう。

もしも!の時、あせらずにこの曲のリズムに乗って心臓マッサージを行うと良く、
リズムの裏で手を戻すのが重要とのこと。
ためしてガッテン!2016年9月21日放送分より。



「DIAMONDS」以降、プリプリの曲はポップス路線に走るようになったと言われる。
が、「そして音楽が始まる」(2003年8月31日放送分)によると、
曲作りの要の香ちゃんは元からポップスやメロディアス志向の曲を作っていたそうで、
アルバムの曲の選考会の時にプロデューサー笹路氏の意向もあってあえてメロディアス系をはずしロック系の曲を選んでいたという。
「DIAMONDS」の大ヒットを受けて急に変わったわけではないと聞いて、
妙に納得したというか、そう志向は簡単に変わらないよなぁと思ったものだ。

不朽の名作バラード「M」が出来た時、プロデューサーの笹路氏は「いずれはこういう曲が来る」とは思っていたようだ。

歌詞の内容は、作詞のきょんちゃんが失恋の実体験が詞になったものだ。
ある日、きょんちぁんは香ちゃんにMくんに話をしに行ってくるといって出かけ告白したけれど、振られてしまった。
香ちゃんは家で起きて待っててくれていた。
「ダメになったぁ」ときょんちぁんが言うと、香ちゃんは「よし、飲もう」と言い、二人でジンのタンカレーを飲みまくった。
そして香ちゃんが言ったのが
「きょんちゃん、詞、書きな。くやしいじゃん、もったいないじゃん。私がいい曲をつけてあげるから」という言葉。
そうして生まれた曲が「M」
。 メロディは居酒屋か何かでふと耳に入った時グッとくるような曲をということで作られたそうだ。
「M」の後日譚の曲がある。「台風の歌」だ。
立ち直るにはかなり時間がかかったということだろう。

《追記》
2020年11月15日の動画配信でこの時の話をした。

【生配信】岸谷香〜覗き見KAORI PARADISE〜Vol.13 https://youtu.be/8HJRUoP_BRA 14:10あたりから


「あの日きょんちぁんから「香、帰れなくなったら泊めてね」と予告されてたんですよ」
きょんちぁんはあらかじめ「帰れなくなったら泊めて」と言ってあったのか。
だから香ちゃんは来るんだろうなと起きて待ってたんだ。
と思い聴く。
「ジンのタンカレーはまさかのオンザロックで飲んだ」
「若かったから2人で1本開けたんじゃないかな」
「もうロックでは飲みません、ロックは卒業しました。ソーダ割です」
「あんたたちそんなんじゃなくて、ほろよい(低アルコールの缶酎ハイ)飲みなさい」
「ソーダで割りなさいって、あの時の二人をここに正座させて怒りたいですね」
とも話した。
香ちゃんはあの頃の自分たちに対し、すっかりお母さん目線になっていた。

果たして「M」は誰か? 
1.JUN SKY WALKERのギタリスト森純太さん。
歌詞の「黒いジャケット後姿が」という部分が森純太さんをイメージさせること、
「星が『森』へ帰るように」という部分が彼を暗示しているという噂がある。
うーん、って感じ。
きょんちぁんは実家の前にある公園の桜の木々に星が沈んでいくのを見て、
「星が『森』へ帰るように」というフレーズが思い浮かんだと話している。
2.HILLBILLY BOPSのヴォーカルで88年に亡くなった宮城宗典さん。
彼のイニシャルがM.Mだということ、彼と死に別れて書いた曲だという噂がある。
でもきょんちぁんは告白して振られているので、死に別れてMを書いたというのは当てはまらない。

3.ブルーハーツの真島昌利さん。 これは完全にただの噂の域を出ないようだ。
「プリンセス・プリンセスだった」(史輝出版)「Mのコト」をよく読むと、
M君に振られたことについては書かれているが、さすがに相手が誰なのかについては書かれていない。
また、オフィシャルフェイスブック2012年6月26日の項目に、きょんちぁんが
執念のタイトル「M」』と題して「M」について書いているのでそちらも読んでみて。
2017年の香ちゃんの「50th ANNIVERSARY 前夜祭」ライブのMCでは、Mくんが武道館ライブに来ていたと話していた。
自分のことを歌った曲とわかっていたよう。どんな気持ちで聞いていたんだろう。
なので、宮城宗典さん説は完全に当てはまらない。
「ふられたMくんに仕返ししてやれとこの曲を作ったけれど、Mくんに感謝している、
曲の印税の半分をあげたいぐらい、Mくんは誰かは明かさないで墓場まで持って行く」ときょんちぁんは言っている。
(「週現『熱討スタジアム』 プリンセス・プリンセスの『M』を語ろう」
講談社『週刊現代』2017年2月20日発売号。きょんちぁん・マイケルさん・笹路正徳さんの鼎談)

2018年のライブのMCより。作曲した香ちゃんは曲が出来ですぐの頃は「ボツにしよう」と考えていたそうだ。
メンバーやスタッフに聴かせると「いい曲でボツにするのはもったいない」となった。
あのとき自分でボツにしないでよかった。たくさんの人にカバーされる代表曲になりました、と話す。
よくあるランキングの番組で、失恋ソングの1位に「M」がなった。
それを見ていた長男のチビゴ君が「母さん、すげー」と言っていたそうだ。
チビゴ君、君が思っている以上にお母さんはとってもすごい人なんだよ!、と思いながら聞いてました。
2014年10月5日から放送のNHK BSプレミアムドラマ「昨夜のカレー・明日のパン」の主題歌になった。

7月1日8thシングル「世界でいちばん熱い夏」リリース。

世界でいちばん熱い夏ジャケット

「世界でいちばん熱い夏」
1989年7月1日リリース。8thシングル。
c/w世界でいちばん熱い夏<平成レコーディング>。
初回盤のジャケットは金色だった。

2ndシングルのCD化。
アナログ盤シングルしか出てなくてアルバムにも収録されていないため、
CD化の要望がファンから多数寄せられていた。
c/wの平成レコーディングは、
すでにライブでやっていた大サビから始まるバージョンを収録したもの。
ライブではオリジナルバージョンより
平成バージョンの方を多くやっていた印象がある。
自分は平成バージョンの方がライブ感があって好き。

プリプリのベスト盤には、元のオリジナルバージョン、
SINGLES 1987-1992に収録されたオリジナルの'92mixバージョン、
平成レコーディングのいずれかが収録されている。
オリジナルバージョンと'92mixバージョンは
よく聞き比べないと違いが分からないけど、
'92mixバージョンと表記のない場合は
オリジナルバージョンが収録されていると見て間違いない
(いくつか借りて同じ条件で実際に聞き比べてみたよ。そうしないと判別は難しい。)。
香ちゃんも「君の瞳に恋してる」という曲からインスピレーションを
得たと公表しているけど、サビの部分似てるよね。
世界でいちばん熱い夏』と題してきょんちぁんが曲の解説をしている。



8月2日放送分の徹子の部屋に初出演する。

8月8日〜9日「PANIC TOUR'89 〜LET'S GET CRAZYU〜”夏祭りだよ!全員集合”」。西武スタジアム。
Diamondsでファンがいっぺんに急増したため、以前からのファンからは「ライブのチケットが取りづらくなった」、新しいファンからは「ライブに行ってみたいけどチケットが取れない」との声が上がっていた。 そこでメンバーは都内近郊の渋公クラスのホールでドカンとまとめて10日ぐらいやったらどうだろうと考えるが、急遽で10日も空いているホールがあるわけもなくこの案は断念。 数万単位の大人数を入れられるところで空いているとなるとスタジアム?ということになった。 それまでプリプリは「どんなに売れたとしてもスタジアムのような大きなところではライブはやらない」と言っていたが、プリプリのライブを見たいというファンの声に押されてスタジアムライブを決断。 その代わり通常のライブではなく、お祭りイベントのような感じで行こうという事になった。

この年で忘れちゃいけないのが夜のヒットスタジオの件。この年の10月18日に生放送された「夜のヒットスタジオSUPER」第1回目で、新しい司会者となった加賀まりこさんが香ちゃんに対して「ブタ」「生理中なんじゃないの」という発言をした。 同日放送終了後に生放送されたTBSラジオの「ポップン・ルージュ」で香ちゃんがその怒りをぶちまけた。 翌月の11月15日生放送分では、リハーサルではなかった加奈ちゃんがフライデー(恋人の存在が写真週刊誌に掲載)された件について打ち合わせなしで加賀さんが触れ、メンバーが激怒。 そのあとの「ポップン・ルージュ」ではもうどうしようもないくらい怒っていた。 とうとうメンバー全員が夜ヒットへの出演を拒否する事態にまで発展してしまった。 ということなんだけど、加賀さん香ちゃんのことを結構ボロクソに言っていた。 当時、女性週刊誌が「奥居vs加賀」なんて感じであることないこと面白く書き立てていた記憶がある。 それまで女性週刊誌なんて興味なかったのに思わず立ち読みしちゃったくらい。
加賀さんは今でこそ悪いイメージをあげる人は少ないと思うのだけど、この頃は香ちゃんにとどまらず、ほかのアイドル歌手に「水商売に行ったら売れるわよ」とかいろんなことを言っていて、「すんげぇ感じわる〜やな奴、何で司会変えないんだよ!」と思っていた。 だからもう一人の司会者、古館さんはフォローとか大変だったと思う。 結局、司会を変えなかったから翌年には番組が終わっちゃったんだと思う(ほかにも理由はあるんだろうけど最大要因として)。 ネット検索で知ったことだけど、加賀さん、前の司会者の芳村真理さんから「あなたは人の好き嫌いがはっきりしていて言動に出るから気を付けなさい」と言われていたらしい。 「毒舌女王」とも呼ばれていたという人を司会者に持ってきたのは明らかに起用ミス。 その後、プリプリは夜ヒットに出演していない。ただし何年か後の特番に1回だけ出てたっけ。

11月17日、4thアルバム「LOVERS」リリース。

LOVERSジャケット

「LOVERS」
1989年11月17日リリース。4thアルバム。

1.ムーンライト・ストーリー
2.友達のまま
 『明日はサマソニよっ!!/「友達のまま」』と題して香ちゃんが曲の解説をしている。
3.DING DONG
 『「DING DONG」』と題して加奈ちゃんが曲の解説をしている。
4.レイン
5.恋に落ちたら
6.スパイ・イン・ラヴ
7.シェイク・イット・オフ
8.パパ
 『形になった思い/「パパ」』と題して加奈ちゃんが曲の解説をしている。
9.海賊と私
10.パレードしようよ

前アルバムまでの楽曲はライブで演奏することを前提にアレンジされていた。
ライブで演奏する曲も出揃ったからアルバムだけで
聴いてもらう曲があってもいいんじゃないかということで、
このアルバムからライブでの演奏を前提にしない
アレンジの楽曲が収録されるようになった。
「パパ」は結婚式で流す人がいるけれど、
この曲は香ちゃんと加奈ちゃんのお父さんが
比較的近い時期に亡くなってしまうことがあって生まれた曲。



12月3日より、「PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR '89〜'90 〜FOR LOVERS〜」。(〜1月23日)



1900年

1月4日、日本武道館で初めてプリプリのライブを見て大感激する。あのワクワク感と感動は忘れられない!!!!!
4月12日より最初の全県ツアー、「PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR'90 〜パレードしようよ!!〜」。(〜7月29日)

4月21日、9thシングル「OH YEAH!」リリース。

OH YEAH!ジャケット

「OH YEAH!」
1990年4月21日リリース。9thシングル。
c/wパパ
全県ツアーの応援歌として作られた。

SONYカセット CMソング
メンバーごとのバージョンが作られた。
「ハートを鳴らそう OH YEAH!」
梅雨入りにも負ケズリハ。/「OH YEAH!」
と題してあっこちゃんが曲の解説をしている。



8月8日より、「PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR'90 〜パレードしようよ!!〜SPECIAL」(〜9月13日)。

8月12日、日比谷野外音楽堂でのライブは香ちゃん曰く「悪夢の差し歯ふっ飛びライブ」。 ギターを弾くんで、手袋をくわえてはずそうとしたら差し歯がポロリとは取れてしまった!  「差し歯が取れちゃったからちょっと待ってて」と言って、アロンアルファで差し歯をつけてライブ再開。 差し歯ってなんかの拍子に取れるんだとびっくりしちゃった。 その後その差し歯の部分はどうなったのか、ブログ2010年3月10日付によると弟さんのやっている「奥居歯科」でインプラント治療しているそう。 娘さんの入学式に間に合うように終わらせるって書いてあった。

9月、ラジオ番組「ポップン・ルージュ」が15分番組の「奥居香のポップン・ルージュ」にリニューアル。
放送時間、毎週月〜金23:15〜23:30。〜91年3月まで。 10月、文化放送系で「プリンセス・プリンセスのチャレンジロード」がスタート。 毎週日曜。放送時間、11:30〜12:00。〜91年3月まで。 当時住んでいたところでは、文化放送はノイズが多くて聴くのに苦労した。

10月16日〜23日、タヒチへ行く。ラジオのタイアップ付き。

11月21日、10thシングル「ジュリアン」リリース。 このシングルは部屋の整理か何かの際になくし数年間行方不明になっており、押入れを片付けていたら使わなくなった画材にまぎてこんで出てきた。
この頃、電気店で一つだけ置いてあった120分カセットテープ(SONYではない)を買って全部プリプリの曲で埋め尽くして聴いていた。 探してもなかったからSONYでは120分のカセットは出してなかったと思う(出してはいたけどたまたまなかったのか)。 ライブのセットリストのような仕立てで、「GET CRAZY!」で始まり「19 GROWING UP」で終わる内容だった。

ジュリアン ジャケット

「ジュリアン」
1990年11月21日リリース。10thシングル。
c/w ROCK ME

シチズン ライトハウス CMソング
「ときめき あげたい」の一言が印象的だった。

当時脱走して行方不明になった加奈ちゃんちの猫の名前が
「じゅりあん」だったので、猫へのラブソングだと言われてた。
でも実際は「ある恋をしていたとき、“あんたのこと、詞にかくからね”
といって手を振った約束を果たした」と大全集のライナーノーツに書いていて、
実体験した別れの歌だったりする。
香ちゃんがデモテープの段階で既に「♪ジュリアン」と歌っていたので、
そのままタイトルが「ジュリアン」になったのだ。
オフィシャルフェイスブック2012年6月29日の項目に、加奈ちゃんが
猫と恋の思い出/「ジュリアン」』と題して「ジュリアン」について書いている。



12月21日、6thアルバム「PRINCESS PRINCESS」リリース。

PRINCESS PRINCESSジャケット

「PRINCESS PRINCESS」
1990年12月21日リリース。6thアルバム。

1.ROCK ME
2.ティンカーベル
3.台風の歌
4.逃げろ
5.ジュリアン
6.ROLLIN' ON THE CORNER
7.錆びつきブルース 歌:中山加奈子
8.月夜の出来事 歌:今野登茂子
9.THE LAST MOMENT
10.HIGHWAY STAR
 『台風大丈夫ですか?/「HIGHWAY STAR 」
と題してあっこちゃんが曲の解説をしている。
11.One

PRINCESS PRINCESSのニューアルバムは
「PRINCESS PRINCESS」というCMが印象に残っている。
全体的によくできた1枚で、
最も勢いのあった時にリリースされた感じがある。
ヘビーローテーションで聴いてた1枚。
曲が終わるともう耳が次の曲を待っている、
この感じは曲をシャッフルで聴けないカセットならではの感じだよね。



全県ツアー「PANIC TOUR'90 パレードしようよ!!」のテレカ
全県ツアー「PANIC TOUR'90 パレードしようよ!!」のテレフォンカード
後列左より 今野、奥居、中山
前列左より 富田、渡辺
香ちゃんが23歳の時で、全県ツアー「PANIC TOUR'90 パレードしようよ!!」をやっていた頃。
CMでも「ハートを鳴らそう。OH YEAH!」とかが多数放映されていて、プリプリが全盛期で勢いがあった。



1991年

1月2日より、「PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR'91 〜Only We Can Rock You〜」。(〜3月13日)

3月24〜3月4日、インドへ行く。

4月、香ちゃんTBSの「スーパーギャング」の月曜パーソナリティになる。 放送時間、1991年6月まで 月〜金 25:00(AM1:00)〜27:00(AM3:00)。 7月から2部構成に変更となり月曜1部を担当。1部の放送時間、25:00〜26:00。

文化放送系で「プリンセス・プリンセスのローリングパーティー」がスタート。 毎週土曜。放送時間、16:30〜17:00。〜95年4月3日まで。
この頃の香ちゃんは熱烈な織田裕二さんのファンで、「織田君をゲストに呼ぼう」とか「渋公愛のアプローチ大作戦」とか「織田君のハートにスマッシュ」とかいろんなことをやっていた。 確かスーパーギャングの終わりの頃に岸谷五朗さんがゲストに来て、香ちゃんがゲストで出た「レディオクラブ発射寸前」で「このアマ!」とか放送禁止用語を生放送で叫んだことについて話していた。 五朗さんがいくつに見えますかって聞いて、香ちゃんが「わからない」って答えて「このアマ!」という流れになったかと思う。 だからこの頃はまさかこの二人が結婚するなんて思っても見なかったな。 でもレディオクラブのゲストに香ちゃんが何回か出てたから、最初から悪印象ではなかったんだろうね。

5月10日より、「PRINCESS PRINCESS PANIC TOUR'91 〜Only We Can Kiss You〜」。(〜8月4日)

同日11thシングル「KISS」リリース。

KISSジャケット

「KISS」
1991年5月10日リリース。11thシングル。
c/w バラ色の人生

サントリー「紅茶の樹」CMソング
「KISS」のお話』と題してきょんちぁんが曲の解説をしている。



この年、加奈ちゃんが月刊カドカワのコラム・ザ・ジグソーのページのBED SIDE DONGでミニコラムを書いている。 手元に残っている1991年7月号「立体特集プリンセス・プリンセス」には、「天国のジョニー・サンダースへ」というコラムが載っている。 翌年には1ページ分コラムの方へ移行した。

9月、きょんちゃんがTBSテレビの番組「新し者」の司会になる。共同司会はチェッカーズの藤井尚之さん。 毎週月曜。放送時間、24:40〜25:10。〜92年3月まで。

10月25日、12thシングル「SEVEN YEARS AFTER」リリース。

SEVEN YEARS AFTERジャケット

「SEVEN YEARS AFTER」
1991年10月25日リリース。12thシングル。
c/w I LOVE YOU〜窓辺にて〜
(I LOVE YOUのアレンジ歌詞違いのバージョン)
今年のごーさんいち』と題してきょんちぁんが
「SEVEN YEARS AFTER」にまつわる思い出を書いている。



11月30日〜12月10日、ラスベガスでビデオクリップ撮影。このビデオクリップ撮影中に香ちゃんは髪を切る。 写真集にトホホな顔で切った髪を持つ香ちゃんの写真がある。 気が付けば周りの女性がみんな似たような髪型をするようになっていた。 だからさっさと髪を切りたかったがSONYがそれをさせてくれなくて、ラスベガスで撮影やってそこで断髪式みたいに髪を切ったとライブのMCで話していた。

1991年12月7日、7thアルバム「DOLLS IN ACTION」リリース。

DOLLS IN ACTIONジャケット

「DOLLS IN ACTION」
1991年12月7日リリース。7thアルバム。

1.Dear
2.名前のない町
3.ジャングルプリンセス
4.空より海より(プリプリサンバ'91)
5.砂漠の太陽
6.ジョーカーと100人の亡者 歌:中山加奈子
7.SEVEN YEARS AFTER
8.SUMMER MADNESS
9.COME BACK
10.ロマンス
11.I LOVE YOU

このアルバムは曲順が2案あったそうだ。
@「Dear」で始まり「I LOVE YOU」で終わる案、
A「ジャングルプリンセス」で始まる案。
「ジャングルプリンセス」で始まっていたら
アルバムの雰囲気はがらりと変わっただろう。



この年公開の映画「満月 Mr.Moonlight」(原作:原田康子『満月』)の主題歌「Mr.Moonlight」を香ちゃんが歌う。 ビートルズの「Mr.Moonlight」のカバー。残念なことにCD音源はない。 CD音源化希望!! 映画もDVD化されていない。 1度だけ「岸谷香 Unlock the heart」で流されたのを聞いたのみ (2019年7月12日放送分)。

この前後の頃、東京ブラボーのキーボードだった坂本みつわさんがプリプリのスタイリストとして付く。 解散の頃までいたんじゃないかと思う。 「PRINCESS PRINCESS KISSパチパチ増刊」の中できょんちぁんと対談している。 (VooDoo Hawaiiansの澄田健さんがいたバンドLOOPUSの初ライブ(1994年10月20日)に、坂本みつわさんが参加していたとウィキペディアにあった。 これは何かの縁かもしれない。)




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